今更ブログを開設してみた

ほぼ日記用?もしくは文章を書く練習用。

 

 15年ぶりくらいでしょうか。当時はポケモンの戦略用とかでしたけれども、さすがに月日が過ぎて、趣味趣向もそれなりに変わりました。主にトピックとしては音楽の関係が中心となるでしょうか。まぁそれに限らず趣味関係で思っていることをとりとめもなく書いていきたいなぁと思います。

 

 個人的な趣向としては、ゲームにしても、音楽にしても、ニッチなものに非常に辛い性格であると自覚しております。売れてるものがすべてだとまではいいませんが、基本的に大衆文化にとって商業的に成功を収めるということは、そのものの文化的価値を語る上で欠かせない要素であるというのが私の持論です。芸術・創作の範疇に含まれるものはそもそも我々が生きていくうえで必須のものであるかと問われれば、必ずしもそうではありません。創作物とは、誰かが作った無価値な「モノ」に、別の誰かが評価を加えることで、初めて価値を得ることができるものだと思っています。そしてその「モノ」の価値を極めて客観的に評価できる指標とは、その「モノ」がどれだけの富を生み出せるのかしかあり得ないと考えています。そんな格付けに意味はないというのはもっともな意見なのですが、市井ではしょっちゅうそういう格付けが行われます。

 

 富を生み出すということには、二つのタイプのものがあります。1つ目はいかに格の高い権威や、社会的身分の高い個人に愛されるかということ。一般庶民には分からないが、骨董や絵画に目が飛び出るほどの金額が付くようなことがこれに当たります。2つ目は、いかに多くの人に愛されるかということ。書籍・CD・ゲームなどがミリオンセラーになったケースはこちらに当たります。富を生み出すということとは別の評価軸があるとするならば、創作者同士や、それに近いもの同士の相互評価によるもの。一人の芸術家が他の芸術家の作品に高い評価を与える場合ですが、これは私個人としては先の評価軸よりも一つ下に見ています。これを落書きのような本当に無価値な「モノ」と同列に語るつもりはありませんが、結局こういったものが日の目を見るためには、権威のお墨付きをもらう、もしくはエッセンスを受け継ぐ別のベストセラー作品のベースになる、などの追認のプロセスを必要とすると考えるからです。基本的に社会のルールなどとは異なり、知らない「モノ」というのは、個々人にとっては存在しないものと同義です。

 

 中世までの世の中では、カルチャーの評価軸とは1つ目の要素がほとんどすべてでした。多くの世界遺産をみてもわかるように、文化は当時の権力者や信仰と切り離すことの出来ないものです。大衆文化の誕生は、権力が貴族や聖職者から、民衆へ移譲されたことと密接に関係があると言われています。主に信頼できる評価軸は2つと書いたばかりですが、多数決(ベストセラー)による評価軸というのは、結構危ういものなのかもしれません。事実として、所得格差が広がり、多くの人が本当に興味のあるものにしかお金を出さなくなった昨今では、ファンの囲い込みが進んでいるように思います。マスに広く浅く売り込むのではなく、少ないパトロンから多くの資金を出資してもらうスタイルへの回帰です。基本無料で人を集め、課金による一部ヘビーユーザーからの集金により運営されているアプリゲームや、同じ人に同じCDを何枚も買わせる握手会商法などは、この典型だと考えられます。ただしここで資金を出すのは社会的身分の高い人ではなく、一般の市井の人ですから、最初の評価軸とも少し異なります。こういう変化が健全なものであるのか、不健全であるのかは私には分かりません。社会的な信任が得られなければ、恐らく一時の熱病として淘汰されていくでしょうし、社会的な信任が得られれば、アクティブユーザーの数と熱量が第三の評価軸として受け入れられていくと思います。そして実はこれというのは、私が一つ下に見ていると前述した、「創作者同士や、それに近いもの同士の相互評価によるもの」に非常に近いものです。私としては、新興の第三の評価軸を否定するつもりはありませんが、これは新たなコロニーの形成であり、上手に醸成していかないと社会不安を煽るものになりかねないという危惧はあります。差し当たり、以上が私が創作物を語る上でのスタンスとなります。

 

 そういう社会事情の中、自分でもなにか意見を発言できる場がないかなぁ?と思い、何か文章に起こしてみようと思い立ちました。嘘です。ただの駄文です。